1 :2024/03/22(金) 04:16:41.89 ID:A8etZ5wu9.net
■粛慎(みしはせ)の人々の「沈黙交易」とは?
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ところがこの「沈黙交易」なる商行為、実は今に始まったものではなかった。北海道以北では、千数百年前あるいはそれ以前から、日常的に行われていたものだった。その様子は、『日本書紀』にも記されている。斉明(さいめい)天皇6(660)年3月の条である。この時、蝦夷討伐(えみしせいとう)のため、安倍比羅夫(あべのひらふ)が陸奥(北海道ばかりか樺太にまで到達していたとの説も)に派遣されているが、そこで粛慎国の人々が「沈黙交易」を行っていたというのだ。
比羅夫は、蝦夷ばかりか粛慎まで討伐しようとしていたのだが、その粛慎の人々をおびき寄せるため、海岸に絹や武器、鉄などを置いて待ち構えたという。案の定、彼らがやってきて、それを黙って持ち去っていった。
ところが、その後、思いもせぬことが起きた。何と、彼らが同じところに舞い戻ってきて、着ていた衣や布などをその代金だと言わんばかりに置いていったのだ。もともと、そのような商行為が、彼らにとっては当たり前というべき物々交換の方法だったのである。
■北方から渡来してきた古モンゴロイド
ここに登場する粛慎なる国がどこにあったのかは、諸説あって定かではないが、海洋漁労民族・オホーツク人が暮らしていた北海道北部から樺太、南千島あたりだったとみられている。竪穴式住居に暮らしながら、アザラシやオットセイなどの海獣を食料としていたとも。さらに熊を捕らえ、その毛皮を重要な交易品として、道東のアイヌなどと交易を行っていたようである。
この民族の先祖はロシアのアムール川流域とみられているが、その上流近くにあるバイカル湖といえば、日本人起源説が取りざたされるブリアート人の居住地域である。日本人の北方起源説、つまり石器時代に北方から古モンゴロイドが渡来して縄文人となり、縄文時代晩期に南方から新モンゴロイドが渡来して弥生人になったとの説によれば、この辺りに暮らしていた古モンゴロイドが、2万年前あたりまで地続きであったユーラシア大陸東端から、サハリン、北海道を経て日本列島全域に拡散。これが、縄文人の根幹になった…とも考えられるのだ。
■コロポックルこそが日本人の先祖だったかも
さて、本題はここからである。この粛慎なるオホーツク人も、いつの頃(13世紀頃との説も)からか、道東アイヌと同化あるいは駆逐されて姿を消してしまったようである。その後は、この地域に住む人々も、アイヌと呼ばれるようになったという。興味深いのが、その辺り一帯に言い伝えられてきた小人伝説である。ここにアイヌが住み始める前から、コロポックルという名の背丈の低い人々が、蕗の葉で葺いた竪穴式住居で暮らしていたと言い伝えられているのだ。
このコロポックルの存在を世に広めたのは、日本初の人類学者として知られる坪井正五郎(つぼいしょうごろう)といわれる。日本石器時代人=コロポックル、つまり日本人の先祖はコロポックルだと唱えたのだ。この説はその後多くの学者たちによって否定されたものの、近年、考古学者の瀬川拓郎氏によって、再び見直されるようになっている。
瀬川氏の著書『アイヌ学入門』によれば、このエリア一帯に小人(コロポックル)伝説が伝えられているものの、その中の北千島だけ小人伝説を伝えていないという。そこから、北千島こそがコロポックルが住んでいたところだとの説を掲げたのである。一説によれば、疫病(特に疱瘡、つまり天然痘)の伝染を極端に恐れた(ケガレの思想とも)ことが起因となって、相手との接触を避ける「沈黙交易」が始まったというのだ。何やら、現在の状況(新型コロナ蔓延)と似通ったものがありそうだ。
ただし、北千島の人々が竪穴式住居に暮らしていたことは事実であるが、背丈が特段低かったかどうかは不明。おそらく「交易すれど交流せず」との頑なな姿勢が異端視されたことで、時が経つにつれ、多少背丈が低かったことを、大げさに語られるようになったのではないかと考えられるのだ。
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ともあれ、今やコロポックルなる小人伝説など忘れ去られてしまいそうな感もあるが、実のところ、日本人の源流を考える上では、決して侮るべきものではないのだ。前述のオホーツク人がブリアート人とつながりある民族であったとすれば、道東アイヌはもとより、コロポックルさえ、日本人の祖先、あるいはそれと大きなつながりのある民族であった可能性が出てくるからだ。(以下ソース)
3/18(月) 16:30配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/ee167d3c65c8a1b16a8941ec5722dd29de6efcf1