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なぜ韓国は反日で台湾は親日なのか?

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1 :2019/11/06(水) 22:55:40.57 ID:YS6B0UhJ0●.net


「反日韓国 親日台湾」由来は何か 拓殖大学学事顧問・渡辺利夫

韓国が反日的である一方、台湾が親日的なのはなぜか、としばしば問われる。“日本が両者と関わるようになった近代史の起点を振り返れば理解できますよ”というのが私の答えである。

日清戦争での勝利により清国から割譲された海外領土が台湾である。
日本が台湾に足を踏み入れた時点、この島に住まっていたのはマレーポリネシア系の原住民と対岸の福建・広東から移住してきた言語と習俗の違う諸群族であり、台湾は典型的な異質社会であった。
群族は原住民を山間地に追いやり相互に耕地と支配権を奪い合う殺伐たる状況下にあった。「分類械闘」といわれる。
分類とは原籍を異にする者、械闘とは格闘、闘争のことである。コレラ、ペストなどの熱帯病も蔓延(まんえん)していた。

清国は1684年に台湾を福建省台湾府として自国領とした。しかし台湾の開発には関心がなく、天子の徳の及ぶことのない蕃地(ばんち)「化外の地」として放置した。
日本が新たに領有することになったこの島には政治も社会統合も不在であった。統治開始のためには、清国兵と現地住民よりなる反日武装勢力、「土匪(どひ)」と呼ばれるアウトロー集団を排除しなければならない。
日本は台湾で「もう一つの日清戦争」を戦わざるを得なかった。その制圧に成功した日本を待っていたのは、社会の末端を深く冒していた熱帯病と「アヘン禍」であった。
台湾は文字通り「難治の島」だった。台湾の開発が軌道に乗り始めたのは、総督・児玉源太郎、民政長官・後藤新平が着任して以降のことである。

台湾には日本が継承すべき歴史や文化は何もなかった。しかし、このことは初期の難題を克服すれば、その後の開発を遮るものがなかったことを意味する。
実際、児玉と後藤は自ら描いたデザイン通りに開発を進め、全島の隅々にわたる社会統合を史上初めて実現することができた。
以来、第二次大戦での日本の敗北による「台湾放棄」に至るまでの間に、日本が台湾に根付かせたものが、日本の社会秩序と社会規範であった。

https://special.sankei.com/f/seiron/article/20191106/0001.html