1 :2019/10/25(金) 14:34:32.81 ID:CcbaKFVV0●.net
「公」と芸術ーあいちトリエンナーレが残したものー 林立騎
国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」ではアートと表現の自由、公権力による関与が問題となった。出品作家や学芸員らに見解を寄せてもらった。
沖縄の文化芸術支援の経験から、私たちの未来を変えるのは小さな個人の意思だと知った。
地域の芸能を子どもたちに伝えたい、各家庭に眠る8ミリフィルムが映す歴史を共有したい、沖縄の書物をアジアに発信したい、たった一人やごくわずかな人の思いが、少しずつ別の個人に伝わり、広がる。
上から押し付けられるのではなく、日々の生活から生まれた切実な思い、未来への願いが、「このままではいけない」と問いを投げかけ、人を動かし、地域を変える。
そうした文化芸術の価値が、今、危機に瀕(ひん)している。
文化庁が、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」への補助金を採択後に「不交付」とした。
事業の運営を脅かす事実が申告されていなかったという手続き上の不備が理由とされたが、芸術祭の一企画「表現の不自由展・その後」がテロ予告により閉鎖に追い込まれることを事前に認識できたはずはなかった。
理由は便宜的なもので、政府にとって不都合な表現への介入と受け止めざるをえない。
不交付を支持した専門家は皆無で、法や文化政策の専門的見解さえ無視する強引な決定だった。
展覧会が会期末までの一週間、安全な再開を実現したにもかかわらず、不交付が覆らないことからも、政府による表現の自由への介入は明らかだ。
政治の介入を許す欠陥が文化庁にあるなら、不交付撤回を進めるとともに、公正な文化行政制度の確立を徹底すべきところ、文化庁所管の「日本芸術文化振興会」までもが助成金交付要綱の改定を行い、
「公益性の観点から助成金の交付内定が不適当と認められる場合」には常に事後的に交付を取り消すことができるとした。
しかも「公益性」の定義はなされていない。不透明な介入が起こりうる状況はさらに深刻化している。
「公益」を誰が判断するのだろうか。今日数万人を楽しませる表現でも、社会をよくするとは限らない。
過激で前例がない活動も、中長期的に変化をもたらすことがある。
言い訳や異動で責任を逃れる政治家や公務員と異なり、文化芸術に携わる個々人は自らの行動に責任を負う。
政治や行政は文化芸術の本当の「公益性」を専門家以上に評価する役割を果たしえない。
どのような文化芸術が「おおやけ」によって保障され、私たちのどのような利益になるのか。
今回の危機は、歴史に向き合う個人の声や思いが政治家や市民から非難を受け、政府の見解や「普通ではない」ことを理由に押しつぶされつつあることだ。
しかし政治ができないことを個人が始めることこそ文化芸術の価値である。